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ソフィア

ブルガリアの首都であるソフィアの紹介。ソフィアの地理、気候、歴史、人口、文化、経済、インフラ、教育機関などを紹介しています。

   

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ソフィアの歴史

◯古代
ソフィアはかつてはトラキア人の集落であり、セルディカ(Serdica)またはサルディカ(Sardica)と呼ばれていた。おそらくこの呼称はトラキア人の部族セルディ(Serdi)に由来するものと考えられる。紀元前500年ごろ、別の部族オドリュシ(Odrysi)がこの地域に居住していた。彼らは独自の王国(オドリュサイ王国)を持った部族として知られる。紀元前4世紀の短い間、町はピリッポス2世とその息子アレクサンドロス大王によって支配された。
紀元前29年、セルディカは古代ローマによって征服された。町は地域の中核とされ、トラヤヌス帝(98年-117年)の時代にウルピア・セルディカ(Ulpia Serdica)と改称された。
セルディカについて言及した最古の文献は紀元前100年頃のクラウディオス・プトレマイオスによるものであると見られる。
セルディカは拡大し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、礼拝所、公共のバシリカ、アンフィテアトルム、裁判所、会同、劇場などが建造された。ディオクレティアヌスがダキアをダキア・リペンシス(Dacia Ripensis、ドナウ川沿い)とダキア・メディテラネア(Dacia Mediterranea)に分割した際、セルディカはダキア・メディテラネアの首都とされた。町はその後1世紀半にわたって拡大を続け、政治・経済の中心地となった。町はキリスト教を公式の宗教として受け入れた最初の町の一つとなった(ガレリウス帝による)。そのため、コンスタンティヌス1世がセルディカを「我がローマ」と呼んだことはとても自然なことであろう。
セルディカはそれほど大きくはなかったものの、その都市設計の計画と建築は壮麗であり、多くの娯楽と活発で社会的な生活があった。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時代には繁栄を謳歌した。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は現在も見られる。
町は447年にフン族によって破壊されたものの、ユスティニアヌスによって復興され、一時期トリアディツァ(Triaditsa)と呼ばれた。
◯中世
ソフィアは、809年のクルム・ハーン(Крум / Krum)の時代に、長期にわたるセルディカ攻城戦(en)の後に初めて第一次ブルガリア帝国の一部となった[8]。その後、町はスラヴ語でスレデツ(Средец / Sredets)と呼ばれるようになった。町は重要な要塞と政治の拠点となった。ヨハネス1世ツィミスケスの時代の971年にブルガリア北東部が陥落すると、ブルガリアの大主教ダミアン(Damyan)はソフィアをその主教座とした。幾度にも及んだ攻城戦が失敗に終わると、町は1018年に東ローマ帝国の手に落ちたが、イヴァン・アセン1世の時代に再度第二次ブルガリア帝国によって再征服された。12世紀から14世紀にかけて、ソフィアは交易と工芸の拠点となった。
◯オスマン帝国
ヴワディスワフ3世による1443年のソフィアへの進軍が終わってからは、町のキリスト教徒の指導者らは抹殺され、オスマン帝国のルメリア州(Rumelia)の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配が続いた。町にはトルコ人が住むようになった。16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのモスク、泉、ハマムが設けられた。この間、町の人口は7千人から、17世紀中期には5万5千人に膨れ上がった。
町はブルガリア人の反乱者(haiduk)によって1599年に数週間にわたって包囲された。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持された[9]。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、967年からソフィアにはシナゴーグがある。
◯オスマン帝国時代の終焉
ソフィアは露土戦争のさなかの1878年1月4日にロシア帝国によって征服され、1879年には新たに誕生した自治公国である大ブルガリア公国の首都となった。ソフィアはマリン・ドリノフ(Марин Стоянов Дринов / Marin Drinov)によって首都候補として提案され、1879年4月3日に認められた。解放されたときの人口は11,649人であった[10]。
町が一般的にソフィア(古代ギリシア語で知恵を意味する)と呼ばれるようになったのは、1376年に聖ソフィア聖堂が立てられた後と考えられている。しかしながら、資料によって19世紀末まで、町はソフィア、スレデツの両方の呼称で呼ばれていた。ブルガリア=オスマン戦争(en)によって1382年にソフィアはオスマン帝国に包囲され、長期間にわたる攻城戦の末に町はオスマン帝国に制圧された。1878年にソフィアがオスマン帝国の支配から解放された後、ブルガリア人の革命委員会からは古い呼称であるスレデツを維持したいという強い願望が出されていたが、ロシア人の支配者は呼称をソフィアと決定した。
解放後の数十年の間で、主にブルガリアの他の地域からの大規模な人口流入により、町の人口は一挙に膨れ上がった。公国は1908年にブルガリア王国となった。1925年にブルガリア共産党によって聖ネデリャ教会襲撃事件が引き起こされ、170人が死亡、500人が負傷したといわれている。第二次世界大戦の間、ソフィアは連合国による空襲(en)を受けた。後に町はソビエト連邦に征服された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの支援の下でのソ連による征服に続いて、ドイツと同盟を結んでいたブルガリアの政府は共産主義者に取って代わられた。プラハ、ワルシャワ、ブカレストなどと同様に、ソフィアは社会主義国家であるブルガリア人民共和国の首都となった。ブルガリアはこの戦争で領土を失うことは無かったが、多くの人命が失われ、また、ブルガリア国外のブルガリア人との結びつきは大きく損なわれた。この間、ソフィアの人口は急速に拡大し、工業発展が重視され、多くの新しい工場や製作所が町とその周囲に建造された。これによって郊外に多くの新しい町が生まれ、交通ネットワークが拡大した。

参照:Wikipedia「スフィア
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ソフィアの気候

ソフィアは大陸性気候であり、気温の変動が大きい。最も暑くなるのは8月であり、最も寒くなるのは1月である。1936年までの、年間平均気温は摂氏10.0度であり、その後0.5度上がっている[5]。年間平均降水量は572ミリメートルであり、降雨は夏に多く冬に少ない。標高が高いため、夏季のソフィアの気温はブルガリアの中では比較的低温であるが、朝晩は涼しいが、日中は摂氏35度を超えることも少なくない。

参照:Wikipedia「スフィア

ソフィアの地理

ソフィアの歩みは、町がバルカン半島の中心に位置していることと大きく関連している。ソフィアはブルガリアの西部にあり、ヴィトシャ山(Витоша / Vitosha)のふもと、ソフィア渓谷(Софийска котловина / Sofiyska kotlovina en)の中にあり、周囲の全方位を山に取り囲まれている。渓谷はブルガリア全土でも最大級のものであり、面積1186平方キロメートル、平均標高は550メートルである。3つの山道が町を通っており、古代にはアドリア海、中央ヨーロッパ、黒海、エーゲ海を結ぶ重要な交易路であった。
ヴラダヤ川(Владайска река / Vladayska reka、en)、ペルロフスカ川(Перловска река / Perlovska Reka) などの細い河川が町を通過している。イスクル川(Искър / Iskar)はソフィア近郊を流れている。町は多くの湧水、熱水泉で知られている。近くにはダムによる人造湖が20世紀に建造された。
ソフィアは、ブルガリア第2の都市プロヴディフから北西に130キロメートル[4]であり、ブルガスから340キロメートル[4]、ヴァルナから380キロメートル[4]である。ソフィアは近隣の3箇国からそれぞれ200キロメートル以内にあり、セルビアとの国境の町カロティナ(Калотина / Kalotina)から55キロメートル、マケドニア共和国との国境の町ギュエシェヴォ(Гюешево / Gyueshevo)から113キロメートル、ギリシャとの国境の町クラタ(Кулата / Kulata)からは183キロメートルである。

参照:Wikipedia「スフィア

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